昭和53年01月12日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
昨日は今春場所ですかね、相撲があっております。あれは若乃花の弟なんとかいったっけ。ちょっと貴乃花。貴乃花が四連敗でしたかね。昨日私は始めて見たんですけれども、四回続けて負けている。あいうまぁ言うならば人気相撲でし、まだもう中々素晴らしいすもうですけれども。何かこぉ迫力を欠いているというか。何かまた負けるなという土俵ではそんな予感がするんですね見ておって。そしてやっぱ負けたと。昔からすもうを見る者とすもうを取るもの。すもう取りが見る馬鹿だとこう。
あぁ白真剣にやるから相撲の方が馬鹿だと、見るもんが利口者だと。御芝居は反対なこと。御芝居は見るもんが馬鹿で、やる者が利口者だ。というのはあの例えばしらなき嘘泣きをしている例えば舞台でね。けれども見物は本当の涙を流しおるわけです。あれはが歌舞伎では、涙を流したらもうダメだと言われておるですね。情感というものを抜きにして、しかもそれが泣いているかのように見えなければいけない。それをその見る者はね、知ら涙を見る者は本当の涙を流しているというわけなんです。
昨日は丁度研修のときに、こういうご本を頂いた。玉三郎の艶姿をとてもとても、これが男とは思われないごたる素晴らしい、こんな写真ですよね。これを先日あの持って来て下さった。私が芝居が好きだからというのででしょう。まぁこれを昨日ちょっと研修前に読ませて頂いておりましたが、結局歌舞伎というのは、美的な美の追求なんですね。言うなら、美の追求いわえる芸術なんです。ですからあの御芝居の歌舞伎芝居の場合は、それこそ涙を流してはならない。
そして泣いているように、観客を泣かせるぐらいの演技がいる。もうそれこそ陰惨な殺しの場だって、美的な要素というものを追求してある。だから目をおうような例えば場面であっても、それが素晴らしい美しいものに見えるね。とくに例えばあの濡れ場なんかというものは、今のテレビなんかで見ますともう本当に目を覆いたいようなスイッチすぐ切りたいような感じの場面をまぁ写実的にいわばやるわけですけれども。
歌舞伎ではそう言う所でもただ美しいと言う事だけしか与えないような、もうそれこそ後ろ姿でも素晴らしく、美しく見えるような言わばこぉまぁ考察がしている訳。もう本当に美を限りなく追求すると言う事です。私は昨日の若乃花いやじゃない、その貴乃花が連敗している何かそこに訳があるね。言わばなら歌舞伎でいう美的な追求。美の追求と言う所にです、私は今日の生神への道があるような気がするんですけれどね。
もう確かに信心もです、自分の修行不足のときには、間違いないおかげになるといったような確信が生まれてこないですね。それこそ御神願有り難うございますとは言えないのです。昨日は研修が終わって、御祈念が終わってここに座っておりましたら、家内があの一番下の一恵を抱きかかえてから、もうしって泣きよるのば連れてきて、そのやけどをさせた。そのちょっとあのかかって守りをしているとですよね。それにあのポットがあのおいてあったのをこぉ引っ張ってから引っくり返しておる。
それで足をもうこうべらりやっておるわけです。それですぐお取次ぎをさせて頂いて、もう時間でしたから下がりましたけれども、もうあんまりその泣くもんですから、見てはおられない。すぐそれからお風呂入ってお食事をしましたけれども、お風呂行っても、久冨先生から一緒に洗ってもらうけれども、物も言わんし、お食事でもお神酒を頂いておってもいっちょんお神酒の味がせんし。これは本当自分の信心なこれは本当地に落ちたなぁと思うくらいでした。
もう私の方で孫であの一恵だけです私が行くと、にこっと笑ってからもう手出にゃおれんごとするもんですから、やっぱりその抱いたりいたします。他の子のは、抱きませんし家の子供達でも私は神様から抱くことは、禁じられておりましたから抱きませんでした。抱くと人情、情が出るわけですね。情が出たら生神金光大神にはなれないです。どこまでも出るのは神情でなければ金光大神の情というのは神情なんです。だから自分にからんだりしたらおかえにならんのです。
例えば幹三郎なんかのもう行ってひょっとしたらお遺骨になって返って来るかも分からんという時でも昨日のごと心が乱れなかったのです。黙ってお風呂入ってから、あの泣き声が聞こえてくるもんですからね。それから部屋で先生と一緒にお酒をお神酒を頂いていますけれども、もう言うならばものも言おうごとない。はぁ本当にこの人情というものがいかに信心の言うなら邪魔になるかと言う事を思います。昨日これは丁度昼ごろでしたが、末永先生が私の部屋にやって参りました。
今日は竹内先生と2、3人で土居の勇さんの所にお見舞いに行きたいと思います。とこぉ言うのですね。そりゃ行ったら喜びなさろう。先生何かい寒さんに対するお言葉はないでしょうかと、こぉ言うわけです。私もちょっとその何かあの喜びそうな言葉を心に探しましたけれども、神様から何も頂かなかったね。だから何も、いやあんたどんが行きやもうそれでよかろうというて、あのしばらく時間をおいて、神様にお願いをしましたけれども頂かなかったから、あの言葉もことづけなかったわけですけれども。
もう本当にこんな冷たい心があるだろうかと思います自分でね。あぁいう難儀な中におられる、それであれだけ熱心な信心をしておられた。言うなら、お魚の一つも持たせてやりたい。これは人情の中にあります、充分ありますけれども、それをしない。しかもなら3人でお見舞いに行こうというのに、ならことづけ持たせる言葉も持たせなかったね。私が頂いている修行繁雄さんじゃない勇さんの頂かれているお徳というのは、徳を受けて今楽になるという徳ではないって。
例えば真鯉を御神徳で頂くならば、あちらの場合はもうそれこそ買うたら何万するじゃろうかと言う様な朱の強い緋鯉がありますよね。今度の記念祭のときに四国から頂いたのがそげんとでしたが、随分高いもんだそうです。もう真っ赤白と赤のね、その赤がとても素晴らしい。言うなら食べる鯉ではなくて鑑賞する徳です。だからあぁいうならご両親があれだけ熱心で奥様が亡くなられた。自分はあいう病気にかかられた。もう何からかにまで信心しておってと思うごたるけれどもです。
その信心の徳というものはですね、言うならば次の時代に物を言うて来るという感じのお徳なんですね。食べられない見とくだけの徳というわけです。そう言う事を私が頂いておりますからね、ここで例えば人情なんかつかっておったんでは、結局徳の成就の邪魔になると私は思うたから、いや言わば末永先生も思うたじゃろうと思うたです。何か一言ぐらいどうかね「神願有り難うございますと受けていかないかんばい」とか何んとか言うてそのやりたい気持ちはあるけれども私の神情がそれをゆるさんのです。
私が孫のそのやけどに感じた人情それから勇さんに対した感じた神情ね。言うならば、お相撲と芝居の言うなら追求というか、言うならば焦点というかね。もうすもうというのは、勿論わざもですけれども、力が段々減ったらもう例えばどんなにわくをきらっても、いっぺんになら十両なら十両をおとされるように、勝負の世界は厳しいね。そこで私は思うのですけれども、修行が出来ておらなければね、そういうときに言うならば、ファイトが湧いてこないです。
難儀な事になれば成程、ファイトが湧く様な信心でなければいかん。所がすもうの世界はもう二返も負けた、3返も負けたさぁ4回負けるかもしれんね。ファイトではなくて、もう自分の心を捉えているものは、負けるというその事が心一杯に広がっておる。このへんのその微妙なことですね。信心にもそれがあります。はぁ本当もう一押しと言う所で、信心しておってもこげな事になるならと言って、すぱっと止める人がある。
そこのところの日頃の信心にものを言わせて、いよいよファイトをもやして、そこの言うならばせきを超えて進んで行く人もある。そこに言うならば、人情神情の差というかね。生神を目指す者とただおかげだけを目指す者の相違がそこにあるでしょうね。とにかく言うなら、御芝居が美の追求をもう限りなくするように、どういう陰惨な中でもにでも、歌舞伎の場合は必ず美が追求してある。いや後ろ姿にでもその美が要求されるそれが歌舞伎芝居なんだと。
用にです私共がです信心させて頂いてどんな場合であっても、どこから見ても横から見てもですね、前から見てもですやはり有り難し。神願有り難しという心が出てくるようにならなければいわゆる生神の道はとても険しいことになってまいります。それが身についてきたら生神への道というのはそれこそ楽しゅうして有り難うしてね、それこそ愉快な心で信心を進めて、生神へ向かって進んで行くことができる。
心に用心しなければならないことは、いかに人間心というものがたあいの無いつまらないことかと言う事が分かります。信心させて頂く者はそう言う所の心掛けもいるですね。人情と神情の使い分け、私は生神への道をね言うと相撲と御芝居のこと。それから私の孫の昨日のやけどのことと、うん勇さんに見舞いに行くという時の私の心境を聞いて頂いたんですけれどもそこにね、生神への道がはっきり何かしてくるように思うでしょう。良く考えて見て下さい。
どうぞ。